食育のすすめ-食育の先進県 福井

食育を進める福井県

食育とは?

〜食育のルーツは健康長寿ふくいから〜
日本で初めて「食育」という言葉を本の中に使用した石塚左玄(いしづかさげん)

本に初めて書かれた「食育」とは
26歳の石塚左玄
「食育」が書かれた
「化学的食養長寿論」
復刻版(ふっこくばん)

『学童を有する(たみ)家訓(かくん)(げん)にして体育、智育(ちいく)才育(さいいく)(すなわ)ち食育なりと観念(かんねん) せざるべけんや。』と明治29年(1896年)に書いた「 化学的食養長寿論(かがくてきしょくようちょうじゅろん)」の中に日本で初めて「食育」という言葉を石塚左玄が使いました。

子供の教育の中で「食育」が一番大事で子供にとっては「食育」は全ての教育の基本になり、「食育」は家庭で親が行うものであるという意味です。


石塚左玄の略歴(りゃくれき)
嘉永4年(1851) 福井市で誕生。
慶応3年(1867) 福井藩医学所に通学。
明治元年(1868) 福井藩医学校に勤める。
明治4年(1871) 泉病院で診察方調合方(しんさつかたちょうごうかた)となる。
明治4年(1871) 上京。
明治5年(1872) グリフィスの助手をする。
明治6年(1873) 医師と薬剤師(やくざいし)資格(しかく)を取る。
明治7年(1874) 陸軍軍医(りくぐんぐんい)採用(さいよう)される。
明治28年(1895) 日清戦争に医師として働く。
明治29年(1896) 陸軍少将薬剤監(りくぐんしょうしょうやくざいかん)で陸軍退職。
明治29年(1896) 「化学的食養長寿論」発表。
明治29年(1896) 石塚食療所(いしづかしょくりょうじょ)を開設する。
明治31年(1898) 「食物養生(ようじょう)法」を発刊。
明治40年(1907) 食養会ができ顧問(こもん)になる。
明治42年(1909) 58歳死亡する。
石塚左玄の功績
26歳の石塚左玄
「化学的食養長寿論」原稿の一部
坂西家所蔵

「食育の祖」とも「食育基本法生みの親」とも呼ばれている石塚左玄の最大の功績はなんと言っても彼が明治29年(1896年)に書き著わした『化学的食養長寿論』の中に『食育』なる言葉を日本で初めて使った事です。今「食育」の重要性が言われているのは、石塚左玄が書き残した「食育」の言葉のおかげです。そして平成17年6月10日に国は「食育基本法」という法律を作って国民が正しい食生活を実践し、さらに健康で明るい家庭が築かれる事を目指しています。

2つ目の功績は明治時代の文明開化で食や食文化までもが洋風化される中で、日本古来の食生活が乱れ今後病気が増加すると注意を呼びかけました。食生活は日々の健康を左右するので、日本人には日本人に合った食生活が大事であると言ったのです。

3つ目は石塚左玄が独自の食育・食養論を確立し、それを多くの本に書き、現代の日本人にも食の重要性を教えてくれている事です。

石塚左玄の食の(おし)

石塚左玄が唱えた食育・食養論は大きく整理して6点あります。その6点とも決して難しい言葉でなく、誰にも簡単で分かりやすい言葉で教えています。

  1. 家庭での食育の重要性
    食育は子供にとって全ての教育の基本であり、子供にとって最も大事な教育であり、食育は親が家庭で行うものであると言っています。
  2. 命は食にあるという食養道(しょくようどう)の考え
    心身は食によって作られ、食が人の健康を左右するという食養生(しょくようじょう)の基本です。
  3. 人間は穀食(こくしょく)動物である
    人はその歯や(あご)の形状から雑食(ざっしょく)や草食や肉食でなく穀物を主に食する動物です。
  4. 食物は丸ごとで食べる
    栄養は食べ物の一部分にあるのでなく食べ物全体にあるから、なるべくそのままの丸ごと・全体食が身体に良い。
  5. 地産地消で地域の新(せん)で・(しゅん)の物を食する
    住んでいる地域でとれる農海産物をそこに住んでいる人が食にする事は自然で心身に(やさ)しく新鮮で栄養価値が高くより健康的になると教えています。
  6. バランスのある食事
    食は何でもバランスよく食べる事が大事と(さと)しています。

このサイト内の記事・写真等の無断転載を禁じます。著作権はJA福井県中央会及び各情報提供者に属します。